郷土の発展につくした人たち

成山 徳三郎(なりやま とくさぶろう)

この苅屋沖の砂浜を本格的に干拓しようと考えたのは、大阪の商人だった成山徳三郎でした。徳三郎は、だれがやってもうまくいかなかった大阪住吉にある砂浜の干拓に成功していました。
その「加賀屋新田」という新しい土地を開発し、干拓事業には強い自信を持っていました。そこで、苅屋沖の土地の権利を手に入れ、1919年(大正8年)に、干拓に取り組み始めました。目標面積を76ヘクタールと決めて、多くの人々を集め、干拓の工事に取りかかったのです。今のように、トラックもブルドーザーもない時代のことです。人々は、くわやつるはしで土を掘り、それを荷車にのせて運んだり、もっこに入れたりして運んで海をうめていきました。強い波が押し寄せてくる周りの囲みには、大きな石や太い木材・板などで堤(つつみ)を築きました。


丸尾 重次郎(まるお じゅうじろう)

1815年(文化12年)御津町中島に生まれ、若いころから農業に熱心でした。
ある年、自分の田にとてもきれいな粒で、穂の重い稲が生長しているのを発見しました。そのわずか3本の穂を「もみだね」にし、苦心して改良し種を増やしていきました。そして、大粒でおいしい米をたくさん作ることに成功しました。やがて、その稲は、たちまち周りの村々に広がり、おいしいと評判になり、全国各地でも作られるようになっていきました。この稲に「神力」(しんりき)と名づけたので、丸尾重次郎のことを「神力翁」(しんりきおう)と呼ぶようになりました。彼の功績をたたえて、御津町中島の小丸山麓には、立派な「顕彰碑」(けんしょうひ)が建てられています。
最近、御津町の田では、営農組合の努力でたくさんの「神力米」が作られ、その米を使ったおいしいお酒「神力」も販売されています。


柴原 和(しばはら やわら)(1832~1905)

日本で初めて地方議会を開設した人物です。柴原和は、天保3年2月(1832年)たつの市龍野町の藩士の家に生まれました。三男だったため、幼いときに他家の養子となりましたが、生来の激しい気性のためか、実家に戻されました。このような気性でしたが、幼い頃から学問を好み、大きくなると大阪や江戸に行き、名高い漢学者に学びました。この学識をかわれて、藩校敬楽館(けいごうかん)の読書指南(しなん)兼塾長(じゅくちょう)に抜てきされました。明治2年には、新政府の官僚として、侍詔院(たいしよういん)に出仕しました。岩倉具視、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文らから厚い信頼を得て、やがて千葉県令(知事)となりました。 そして、明治4年に、全国で最初の地方議会を開きました。柴原は、県民の代表として代議人を集めて議会を開き、自ら議長となって道路や学校など行政上の諸問題を審議(しんぎ)させました。この議会は「官民協同会議」的なものであり、代議制度としては不十分なものでしたが、民主化をすでに視野に入れている柴原の「先見の明」が感じられます。育児金制度を設ける一方、学問の普及にもつとめ、今の千葉一高に英人教師を招いて英語教育を振興させました。医事衛生制度の確立にも務め、千葉大医学部の基礎をつくりました。彼の功績は千葉県庁1階ロビーには郷土の先覚者の1人に選ばれ、写真と選定理由が掲げられています。柴原はその後、山形県知事、香川県知事、勅選(ちょくせん)貴族院議員を歴任し、73歳で死去しました。
参考図書
『ふるさとの先人-龍野市・揖保郡篇-』平山実編 中央出版
『柴原和』霞城館編 たつの市立図書館発行


矢野 勘治(やの かんじ)(1881~1961)

龍野市名誉市民(たつのしめいよしみん)。一高寮歌(いちこうりょうか)の作詞者。横浜正金銀行(よこはましょうきんぎんこう)ロンドン支店長としても活躍(かつやく)。矢野勘治は、1880年(明治13)に龍野町日山で呉服商を営んでいた三木定七の次男として生まれました。矢野静塵という人が開いていた塾に通っていたところ、その優秀さを認められて、15歳の時、矢野家の養子になりました。当時、龍野には中学校がなかったので、1896年(明治29)、上京して日本中学の2年生に編入しました。そこでも大変成績がよかったので、途中で1年飛び越して、1899年に卒業し、第一高等学校(一高)に入学しました。
一高時代には政治の世界に強い関心を示しました。その一方で、当時俳人・歌人として有名であった正岡子規を訪ねて、根岸短歌会に入っていました。1901年(明治34)、第一高等学校第11回記念祭の時に寮歌が募集され、勘治が作詞した「春欄漫(はるらんまん)」が西寮の寮歌に採用されました。これが大変評判がよかったたため、翌年の第12回記念祭には東寮から寮歌の作詞を頼まれ、「鳴呼玉杯(ああぎょくはい)」をつくりました。当時、第一高等学校には5つの寮があり、毎年募集または依頼によってその年の各寮歌がつくられて記念祭で発表されていました。記念祭の寮歌は第60回までありますから、単純に計算すると300の寮歌がつくられたことになります。しかし、現在では一高寮歌というと、勘治が作詞した「春欄浸」と「鳴呼玉杯」の2つをさすようになっています。
1906年(明治39)に東京帝国大学を卒業した勘治は、銀行に就職して経済界で活躍しました。そして、1945年(昭和20)に龍野に帰って気ままな生活を送り、1961年(昭和36)81歳で亡くなりました。その間、1959年に龍野名誉市民の称号を受けました。龍野公園の児童動物園の上の樟林の中に、勘治の徳をたたえる碑と2つの寮歌碑が並んで建っています。


内海 信之(うつみ のぶゆき)(1884~1968)
(青潮せいちょう・泡沫ほうまつ

龍野市名誉市民(たつのしめいよしみん)。犬養毅(いぬかい つよし)をしたい、模範(もはん)とし、花を愛した反骨(はんこつ)の詩人。内海信之という人は、三木露風と並んで龍野が生んだ偉大な詩人です。体が弱かった ため、露風のように中央に出てはなばなしい活躍をすることはできませんでしたが、2人はとても仲のよい親友でした。信之は、1884年(明治17)に現在の揖西町小犬丸に生まれました。内海家は、江戸時代には庄屋をつとめていた家柄で、明治時代になってからは、地主と創部業を営んでいました。信之は幼い時から体が弱く、1卦近く(約4キロメートル)を歩かなければならない小学校へも、1日おきに登校することが認められていたほどです。中学校へ進学することも当然あきらめざるを得ませんでした。その後、新聞記者になろうとしましたが、やはり思うようにいかず、都会へ出たいという夢も捨てなければなりませんでした。こうした時、与謝野鉄幹(よさの てっかん)らの新しい形式の詩に ふれて感動し、龍野にいながら時代の新しい文化に接するには詩を作る道しかない、と考えて、1902年(明治35)18歳の時に、鉄幹の率いる新詩社(しんししゃ)に入りました。また、親友の三木露風も龍野に帰るたびに6~7キロも歩いて信之を訪れて、中央のようすを伝えたり、文学について語りあったりしました。
そのころ、日本はロシアと対立していました。しかし、信之はトルストイというロシアの作家の作品を読んで、戦争は人間として許せないものであると考えるようになり、戦争に反対する詩を合計21も発表しました。こうして、しだいに中央でも名前を知られるようになりました。
しかし、1910年(明治43)、当時は治らない病気とされていた肺結核になってしまいました。絶望した信之は、せめてこの世に残すただ1つの形見として詩集を出版したいと考えました。親友の三木露風の協力で、ようやく初めての詩集である「淡影(たんえい)」が出版されました。しかし、同じ年の5月に大逆事件がおこって、言論や出版に対する取締りがますますきびしくなってくると、信之は「私は詩を捨てた」と言って、詩を作ることをやめてしまいました。こうして、明治時代の後半に「内海泡沫(うつみ ほうまつ)」と名のって活躍していた信之の名は、詩の世界から消えてしまいました。
かわって大正時代になると、信之は「内海青潮(うつみ せいちょう)」と名のって政治の世界に登場してきます。2年間にわたる闘病生活によって奇蹟的に回復した信之の心身にみなぎる情熱は、何かを求めてやまなかったのでしょう。
1912年(大正元)揖西村会議員になりました。その当時、議会を無視した政治をしようとする桂太郎内閣を倒そうという運動が全国的におこりました。この運動に強い感銘をうけた信之は、指導者の1人であった犬養毅にひかれて運動に参加するようになりました。信之たちは、龍野でも政治演説会をひらき、犬養毅も龍野にやってきました。その後、戦争への歩みが進むなかで、政治にも絶望し、世捨て人のような心境になって、書物だけを友として生きようと決心しました。
しかし、1942年(昭和17)、心ならずも揖西村村長に選ばれ、地方政治につくすことになりま した。生まれつき体が弱かった信之は、龍野から1歩も出ることなく、1968年(昭和43)に84歳で亡くなりました。その間、1959年(昭和39)に龍野名誉市民の称号を受けました。龍野公園の白鷺山西北隅の遊歩道沿いの右側高台に「高嶺の花(たかねのはな)」の詩碑が建っています。


三木 露風(みき ろふう)(1889~1964)

龍野市名誉市民(たつのしめいよしみん)。北原白秋(きたはらはくしゅう)と白露時代(はくろじだい)を築いた「赤とんぼ」の作詞者。
三木露風という名前は知らなくても、「赤とんぼ」の詩を知らない人はいないでしょう。露風は「赤とんぼ」のほかにも多くのすばらしい詩を残しています。また、龍野・小宅・誉田など、郷土の小学校の校歌も作詞しています。露風は本名を操(みさお)といい、1889年(明治22)に現在の龍野町上霞城101番地に生まれました。
露風の祖父は旧龍野藩士で、露風が生まれた時には龍野町の初代町長であった有力者でした。露風が7歳の時、父の道楽(悪遊び)がもとで両親が離婚し、母は弟の勉だけを連れて鳥取の実家へ帰ってしまいました。そういうわけで露風は、祖父母と父によって育てられました。母のいない淋しさが、後になって、露風のどことなくもの悲しい作品を生み出すことになっていったようです。そんな淋しさをなぐさめてくれたのは、周囲の山々と、何かと世話をやいてくれた山崎出身の姐やでした。その姐やが「15で姐やは嫁に行き、お里のたよりも絶えはてた」とうたわれた人だといわれています。
露風は淋しさを内に秘めながらも、小学校を通じて優秀な成績をおさめました。特に作文と詩歌にはすぐれた才能を発揮し、尋常小学校3年の時には、郡内作文展覧会で最優秀に選ばれています。
また、1901年(明治34)12歳の時には、文学サークルをつくって、騰写版(とうしゃばん)刷りの回覧雑誌「少園(しょうえん)」や作品集「秋の花」を出版したといわれています。仲間と刺激しあうことが、いっそう露風の情熱をかきたてたことでしょう。1903年には400人中1番の成績で龍野中学校に入学しましたが、文学に熱中しすぎてその他の学業がおろそかになり、進級の見込みがたたなくなりました。結局1年で退学して岡山県の私立関谷高に転校しました。しかし、そこでも1年と続きませんでした。反面、文学への情熱は高まるばかりで、17歳の時、はじめて詩集「夏姫(なつひめ)」を出版したのをはじめ、すでに東京の雑誌に投稿するなど、いっぱしの少年文学者気取りでした。そうこうするうちに、発表した作品が評価されはじめ、中央や各地の文学者との交流がさかん になるにつれてますます学業に身が入らなくなり、その上この地方にもあきたらなくなって、もっと活躍できる場を求めて東京へ行きたいという気持ちが強まっていきました。しかし、実業家になってほしいと期待する父と意見があわず、結局、東京の商業学校に通うことにして上京しました。
このようにして、ようやく上京しましたが、1年もたたないうちに全然学校に行っていないことが父にわかってしまい、勘当同然になりました。
詩人としては着実な歩みを続けていましたが、仕送りを絶たれて生活費に困るようになりました。そんな露風を助けたのは、肺結核のため龍野に残っていた親友で詩人の内海信之(うつみのぶゆき)でした。露風は何度も信之に借金を申し出ています。
こうして露風の名声は中央でも急速に高まっていき、北原白秋と並んで「白露時代」と呼ばれるほどになりました。そして、1921年(大正10)には有名な「赤とんぼ」の詩が発表されました。1958年(昭和33)には第1号の龍野名誉市民となりました。しかし、不幸にも1964年(昭和39)に交通事故のため75歳で亡くなりました。龍野公園の入口の三差路の所に「赤とんぼ」の碑が、また、聚遠亭(しゅうえんてい)の他の所に「ふるさと」の碑が建っています。


三木 清(みき きよし)(1897~1945)

ヒューマニズムの哲学者と評されています。ヒューマニズムとは、人間性を大切にして、これを束縛したり、抑圧したりする者からの人間の解放を目指す思想のことです。三木清は、明治30年、たつの市揖西町小神に生まれました。信心深い浄土真宗の農家に生まれ育ったことが、彼の後の人間尊重の精神や自然や土に対する親しみの感情につながったと思われます。龍野中学から第一高等学校、京都大学哲学科へと進学しました。大正9年に大学を卒業すると、「空前の秀才」として、大正11年にドイツに留学し、リッケルト、ハイデッガーに学びました。3年後に帰国し、翌年『パスカルに於(お)ける人間の研究』を発表して、注目されるようになりました。昭和2年、30歳の若さで法政大学哲学科主任教授となり、『唯物史観(ゆいぶつしかん)と現代の意識』『歴史哲学』等々を出版し、最高の知性として知識人青年学生たちに揺るぎない信頼を得ました。日中戦争が始まった後も、昭和16年には『哲学ノート』『人生論ノート』のような名著を残しました。 しかし、昭和20年に、治安維持(ちあんいじほう)法の容疑者を保護逃亡させた容疑で警視庁に検挙され、終戦後1ヶ月以上たった9月26日に獄中で皮膚病により、亡くなりました(享年48歳)。哲学者である三木が獄死(ごくし)したことを不審に思ったアメリカ人記者が治安維持法について記事にしたことから、政治犯として投獄(とうごく)されていた他の3千人が釈放され、治安維持法も撤廃(てっぱい)されました。三木の思想は彼の論文『語られざる哲学』に、よく表れています。『よき生活が可能になるためには、「夢・素直・愛」の3つは欠くことのできないものである。』よりよい人生を創造する上で指標となる言葉です。
参考図書
『ふるさとの先人-龍野市・揖保郡篇-』平山実編 中央出版
『哲学者三木清のヒューマニズムと遺したもの』霞城館編 たつの市発行
『真実と理想をもとめて三木清』霞城館編 たつの市発行


丸山 義二(まるやま よしじ)(1903~1979)

龍野の農村を小説にあらわした大正期の農民文学者。
丸山義二は、1903年(明治36)、誉田町高駄の経済的に採れない農家に1人息子として生まれました。成績が優秀だったので、「経済的に恵まれなくても師範の道があるから」と小学校の先生に勧められて、龍野中学校に進学しました。しかし、3年生の夏、突然父が亡くなってしまったため、やむをえず中学校を中退しました。
しかし、文学への関心は高まるばかりで、母を助けて農作業をしたり、醤油会社に勤めたりしながら勉強を続けました。そして、文学仲間を集めて、1919年(大正8)、「鶏寵(けいちょう)」と名づけた短歌と詩の同人誌を出しました。義二にとってただ一つのなぐさめの場でしたが、3年間しか続きませんでした。
その後、東京に出た義二は、1928年(昭和3)に「十円札」という小説を発表してプロレタリア作家として第1歩を踏み出しました。続いて1936年、龍野の農村を舞台にした「貧民(ひんみん)の敵」という長編小説を発表して一躍有名になりました。
ちょうどそのころ、しだいに戦争(日本と中国)の足音が高まってきつつ ありました。義二は戦時下の農村を歩きまわって取材しては、男子を戦場へ送り出した後の農村を描いた作品を十数冊も発表しました。そして、特に東北地方の農村の苦しい生活を見た義二は、「満州(中国東北部)に農民たちの理想郷をつくらねばならない」と考える ようになりました。と言っても、義二は決して戦争を認めたわけではありません。本気で農民たちの将来のことを考えたのです。しかし、太平洋戦争が終わって、着のみ着のままで、肉親と離れ離れになりながら、満州から帰ってくる農民たちの悲しい話を聞くたびに、自分の主張していたことが結局は戦争をたたえることになっていたことを後悔しました。そのため義二は、2度と小説を書きませんでした。そして、1979年(昭和54)、76歳で亡くなるまで農業の耕作技術の向上のために尽くしました。


大上 宇市(おおうえ ういち)

「コヤスノキ」は、西播磨と岡山県東部にしかはえていないめずらしい植物です。この植物は、大上宇市によって1900年(明治33年)に発見、世界の植物学会に発表され、たいへん有名になりました。このコヤスノキを発見した大上宇市は、1865年に香島村篠首の貧しい農家に生まれました。4歳の時に母と、また継母とも10歳の時に別れ、母の愛情にめぐまれずに成長しました。そして、明治時代になり学校がつくられ、10歳で小学校に入学しましたが、生活が苦しくなったため、2年余り通学しただけの13歳のとき、学校をやめなければなりませんでした。
ところが、短い間の学校生活でしたが、他の子どもたちが仮名文字を習っているときに、宇市はすでに漢字が書けるまでに上達していました。14歳の時のことです。幼い時から病弱だった宇市は、健康のために薬草採集をおぼえ、それを機会に山を歩き自然にふれることに興味を持ちました。薬草学の本が読みたいため、父の農作業を手伝いながら、農作業中でも地面に字の練習をしておぼえようとしました。
宇市の生まれた篠首村は、水不足のため水田が少なく、江戸時代には大豆で年貢をおさめていた山あいの小さな村でした。時には日照りの害でまったく米がとれないこともあり村人たちは苦しい生活をしていました。
それに心を痛めていた宇市は、姫路で寒暖計を買って来て、気象観測や村の土の性質を調べたり近くの村と比べたりする研究にカを入れました。また、近代的な学問の本などがほとんどない明治時代のはじめに、博物学の研究には英語やラテン語が必要と考え、そのための学習にもはげみ、自分で学力をつけていきました。
やがて体力がついてきた宇市は、1日40キロメートルの距離を4、5日間も歩く採集旅行に出かけることがあり、昼は山や野を歩き、採集と観察を続け、他人から参考書を借りてきては、毛筆で和紙に1字1字書いて研究をふかめていきました。また、そこで採集した植物や貝類などについて調べたことをまとめ東京や京都にある雑誌社に原稿をおくり発表し、つぎつぎと新しい種類を発見していきました。
「コヤスノキ」が世の中に発表されたのは、宇市が36歳の時でした。それに続き43歳のとき、宇市が発見した新種の貝の「オオカミゴマガイ」と「オオカミキビ」の2種に「大上」の名前がつけられました。宇市のしたことのねうちが少しずつみとめられてきたのです。また、博物の研究に熱中し成果を上げたので揖保郡長から表彰され、村人たちからも注目されるようになりました。また、宇市の家を訪れた研究者たちは、その正確さと内容の豊かさにおどろきました。その後、村人たちからその知識と理論が認められ篠首村の総代に選ばれました。そして、長い間調べてきた篠首村の土や気候、植物などの研究を生かして産業の開発をすすめました。
「むりをして畑を田に変えるのではなく、桑を植え養蚕をしよう。」やがて、篠首村は揖保郡一の「まゆ」の生産地になり豊かな村へと変わっていきました。宇市は64歳の時、とうとう体調をくずし寝込むようになり、およそ数千冊にものぼる本にかこまれながら77歳で息を引きとったのです。


肥塚 龍(こえづか りょう)肥塚 龍

肥塚 龍(こえづか りょう)は、1848(嘉永元)年御津町中島に生まれました。幼いときからかしこくて、とてもわんぱくでした。10歳で寺子屋に通い始めましたが、寺子屋の先生がさじを投げ「もうお前には教えることがない。」と言って「通学止め」を伝えたと言うことです。(御津小学校百年史)それでも勉強が好きだった龍は、13歳の時、網干にある大覚寺 に入り、小坊主になって山空和尚の指導を受けます。その後、網干の新在家にある「誠塾(まことじゅく)」という学校で学びました。
やがて京都に行き、賀茂神社の宮司で、山本硯儒、つづいて高倉西念寺、諦導和尚に師事しました。
そして、1872(明治5)年に東京に行った龍は、新聞記者として働きました。 新しい明治の世の中になった日本は、全国各地いたるところで、「自由民権運動」が大きく高まり、「国民から選んだ議員で議会を開いてほしい」という声が広がっていきました。
大胆で新しい言論活動で注目を集めていた龍は、兵庫県第8区(揖東・揖西・赤穂・佐用・宍粟の五郡からなる選挙区)から立候補し、地元で積極的な政談活動をくり広げます。1893(明治26)年には、御津町黒崎村で「改進党懇談会」を開き、100数十名が集まり、龍らが演説し支持を訴えました。そのかいあってか、翌年龍はみごとに初当選をかざることができ、選挙に協力した人々は、自分のことのように大喜びしました。
帝国議会議員(代議士)になった龍は、大隈重信(おおくま しげのぶ)に起用され、活やくしました。そして、計8回の当選を果たしました。龍の主張は、西播磨の人々の共感を得ていたのです。
1920(大正9)年12月、龍は72歳で息を引き取りますが、最後まで自由民権運動家としての意識を持ち続けました。
※肖像画は、肥塚一郎氏の所蔵