東栗栖の古いたてもの

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千本宿跡(本陣)
東栗栖小学校区の千本は、その昔、美作(岡山県)に通ずる道として知られていました。とくに江戸時代になって、大名の参勤交代が行われるようになってからは、大名の宿がならぶ町として大変にぎわっていました。昭和の初期ごろには、本陣や脇本陣、道の両側にも宿屋、薬屋、雑貨屋が残っていて、昔の面影が残っていましたが、鉄道が敷かれ、国道も南の栗栖川沿いに通ずるようになってからは、ここを通る人もめっきり少なくなり、商家も次々に移ったり閉めてしまったりして、かつての宿場町の風景はほとんどなくなってしまいました。

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栗栖池
栗栖池は新宮町の人でもほとんど訪れることのない密かなところにあります。この池を作るためにそこにあった家などを移転し、田畑180アールをつぶし、10年の歳月と、多くの資材、労力を使ってできた池です。水不足になやまされ、何度も改修工事が行われました。昭和27年ついに工事が完成し、総工費3450万円、8万にもの人がかかわりました。これで、長年「水なし川」といわれた栗栖川に常に水が流れ、その受ける恩恵は大きい。

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松尾神社の農村舞台
この神社は酒公(さけきみ)といわれ、西播磨地方の開発に大きな功績を残した秦氏の氏神として有名な木華開夜媛(このはなさくやひめ)を祀っている。建てられた年代ははっきりしていませんが、奉納されている絵馬から推測すると、今から約200年前のことでないかとされています。この神社の西側には変わった建物がある。これが、春秋2回。この宮の祭りに奉納されていた歌舞伎芝居の舞台です。この舞台の特色は、引き舞台、押し出し舞台、廻し舞台などをうまく組み合わせ、情景や場面を変化させられる仕掛けあります。県下では珍しい装置として、町の有形文化財に指定された。

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東栗栖国民学校
第二次大戦末期頃の東栗栖国民学校の写真です。明治・大正期の東栗栖小学校の校舎写真はこれまでのところ見つかっていないので貴重な写真です。

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東栗栖の村葬
名誉とされた戦死は村葬として迎えられ、おごそかに盛大にとり行われました。写真は東栗栖小学校の村葬会場に到着した行列です。遠方には能地の集落が見えます。学校への入り口と街道の様子は今とあまり変わりありません。

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東栗栖の熱気球打ち上げ
1940年、落ち込んだ景気を上向きにしようとした、記念の一環で試みられた東栗栖の熱気球。気球には「神武」「万世一系 」「八鉱一字」などと書かれたか半紙が貼られています。軍国教育の影響で、国民意識が強かったように思われます。

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梅ヶ坪池
昔は、揖保川や栗栖川の大きな川に行かなくても、家の近くに水浴びができるような小川や池がありました。この写真は、東栗栖小学校横の梅ヶ坪池です。現在も跡が残っていますが、水はありません。