龍野の雛
天児(あまがつ)

江戸時代後期
古くより人形などに我が身の穢れを移す風習が様々あるが、天児も魔除けや穢れを移す人形として産室や子供の身近に置いて狗張子などと共に用いられた。2本の竹の胴に白絹を巻き、十文字に組んだ横棒を手とし、丸い頭に目鼻を描く。子供の衣を着せることもあり、現在でも宮中では用いられている。
這子(ほうこ)

江戸時代後期
天児と同様、魔除けや穢れを移す人形として産室や子供の身近かに置いた。宮中などで用いられた天児に対し、這子は、民間で用いられた。白絹の四方を縫い合わせ、手足を作り、綿を入れた胴に丸い頭を接合している。天児と対で雛に見立てられることもあった。
立雛

江戸時代後期
雛が座姿になる江戸時代前期までは、男雛が烏帽子に小袖、女雛が小袖姿の立姿で、紙で作られることが多いため、紙雛とも呼ばれていた。座雛が中心となっても立雛は、やや脇役的にはなるが作り続けられた。
享保雛

江戸時代
明治に付けられた呼び名で、製作年代を示すものではない。主に町家で飾られ、地方によっては明治初めまで作られたと言う。面長で、女雛の袖に綿を入れ幾重にも重ねるところに特徴がある。
有職雛

江戸時代後期
雛の装束を公家社会の装束に正しく則って製作された雛。特に公家衆などからの注文によって製作されたが、富裕層にも取り入れられた。宮中で装束を調える職務に当たった高倉・山科家にちなみ、高倉雛、山科雛と呼ばれることもある。
古今雛

弘化(1844~48年)頃
華やかな衣装と写実的な顔立ちによって、次郎左衛門雛に代わって作られるようになった。江戸の二代目原舟月が完成させた形式と言われている。幕末には、目にガラスを入れる技法も取り入れられ、現在見られる内裏雛の基になった雛。
古今雛

明治30(1897)年
明治になると、衣装に化学染料が用いられ、特に赤が鮮やかになる。
源氏枠飾り

明治時代
江戸時代後半に京都では、内裏雛を御殿や源氏枠に飾ることが流行する。源氏枠とは、御殿の天井・屋根がなく、源氏物語絵巻の絵のように屋内を上からのぞき見るような構造から名付けられた。
御殿飾り

昭和31(1956)年
江戸時代には、京都を中心に紫宸殿を模した御殿に雛を飾ったが、江戸ではあまり流行しなかったようである。御殿の形式は様々で、横幅3m余りのものまである。昭和35年前後まで売られていたが、それ以降は飾られなくなった。
雛軸

昭和20年代
衣裳雛を購入できない庶民は、雛が印刷された雛軸を飾った。初雛の祝としても用いられた。当地方では、昭和20年代後半まで用いられた。
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更新日:2025年03月31日