水の戦い

更新日:2025年03月31日

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1 揖保川町をおそった水害

赤い帽子と赤い学生服を着た女の子のイラストと「昔の水害の様子と人々の苦労について調べましょう」の文字

揖保川は昔から、何度も大きな水害をうけてきました。水害から人々を守るために、どのような人たちがどのように力をつくしたのか、石碑などをもとに調べてみましょう。

四方山にかこまれ、清(きよ)い揖保川の水にうるおされ、しかも肥沃(ひよく)な土地に恵まれたこの河内谷で、私たちが子どものころから聞かされてきたことは、2~3年ごとに、きまってやって来る宿命のような水害の話であります。
古い記録(きろく)によれば、天明(てんめい=江戸時代)6年8月の大洪水(だいこうずい)。寛政(かんせい=江戸時代)元年5月末の揖保川の大洪水。寛政8年の大出水(だいしゅっすい)。近くは明治(めいじ)15年、23年、25年と連続的(れんぞくてき)におそった大豪雨(だいごうう)により揖保川は大氾濫(だいはんらん)して、袋尻(ふくろじり)・市場の堤防(ていぼう)は決壊(けっかい)して、流れ出た水は河内全村(こうちぜんそん)をのみこんだという。
明治25年7月23日、この日、揖保川の堤防は決壊し、逆流(ぎゃくりゅう)は市場・袋尻・浦部(うらべ)の人家をのみこみ、金剛山(こんごうさん)・馬場(うまば)におしよせて、河内全村は10日間以上よごれた水の海となってしまった。
昭和16年8月15日、超大型(ちょうおおがた)の夏台風が近畿地方各地(きんきちほうかくち)であれくるった。河内村では、揖保川の堤防(ていぼう)が決壊してよごれた水がおしよせ、現在のJA付近でも道路のそばにある石垣(いしがき)まで水没(すいぼつ)した。この水は10日以上もひかず、稲(いね)はほとんど枯れて(かれて)しまった。

<揖保川町史より>

家々が並ぶ街並みの周り一面が水で埋め尽くされている白黒写真

大洪水の様子(浦部)

1976年(昭和51年)に河内地区をおそった水害では、総額16億2500万円の被害がでました。

1976年氾濫区域を示した地図
青い帽子と青い学生服を着た男の子のイラストと「これまであった水害の様子を家の人や地域の人に聞いてみましょう」の文字

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