たつの市のあゆみ(歴史)
約(やく)2億年前(おくねんまえ)まで、たつの付近(ふきん)は海(うみ)でした。
貝の化石が見つかっています。
たつののあけぼの(原始(げんし)・古代(こだい))1
たつの市(し)で一番(いちばん)古(ふる)い人類(じんるい)の遺跡(いせき)は、御津町(みつちょう)で見(み)つかった2万年以上前(まんねんいじょうまえ)の石器(せっき)づくりの跡(あと)です。
縄文(じょうもん)~弥生時代(やよいじだい)になると、新宮宮内遺跡(しんぐうみやうちいせき)などの村(むら)ができ、たくさんの人(ひと)が暮(く)らしはじめました。
古墳時代(こふんじだい)には、養久山(やくやま)1号墳(ごうふん)や姥塚古墳(うばづかこふん)など、たつの市内(しない)に約(やく)1,300基(き)もの古墳(こふん)がつくられました。

姥塚古墳(うばづかこふん)
こだいたつののあけぼの(原始(げんし)・古代(こだい))2
奈良時代(ならじだい)の「播磨国風土記(はりまのくにふどき)」には、たつのの地名(ちめい)の起(お)こりなどが書(か)かれています。
市内(しない)には九州(きゅうしゅう)まで通(つう)じる山陽道(さんようどう)が通(とお)され、道(みち)におかれた駅(えき)の遺跡(いせき)も見(み)つかっています。
このころ、多(おお)くのお寺(てら)や神社(じんじゃ)があちこちにつくられました。
「たつの」の地名(ちめい)の由来(ゆらい)
そのむかし、野見宿禰(のみのすくね)が揖保郡(いいほのこおり)(今(いま)のたつの市(し)付近(ふきん))を通(とお)りかかったとき、病気(びょうき)で亡(な)くなりました。そこで、ふるさと出雲(いずも)の人(ひと)たちがやってきて、河原(かわら)の石(いし)を立(た)ち並(なら)んで運(はこ)び、お墓(はか)をつくりました。だから、「立野(たつの)」といわれるようになったと『播磨国風土記(はりまのくにふどき)』に書(か)かれています。野見宿禰(のみのすくね)は、天皇(てんのう)の前(まえ)で当麻蹴速(たいまのけはや)と相撲(すもう)をとった人(ひと)として有名(ゆうめい)で、相撲(すもう)の元祖(がんそ)と言(い)われています。
武士(ぶし)と殿様(とのさま)(中世(ちゅうせい)・近世(きんせい))
戦乱(せんらん)の時代(じだい)には赤松氏(あかまつし)が力(ちから)をつけ、各地(かくち)に山城(やまじろ)をつくりました。
赤松氏(あかまつし)は将軍(しょうぐん)を暗殺(あんさつ)して播磨(はりま)に戻(もど)り、城山城(きのやまじょう)でほろびました。
江戸時代(えどじだい)になると、ほぼ市内全体(しないぜんたい)を龍野藩(たつのはん)が支配(しはい)しました。脇坂氏(わきざかし)が殿様(とのさま)になって栄(さか)えた城下町(じょうかまち)は、今(いま)でも城跡(しろあと)とともに町並(まちな)みがよく残(のこ)っています。
産業(さんぎょう)としては、しょうゆづくりやそうめんづくりがさかんになりました。
古代(こだい)から開(ひら)けた室津(むろつ)では、参勤交代(さんきんこうたい)の大名(だいみょう)や朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)などが立(た)ち寄(よ)り、このような人々(ひとびと)が泊(と)まる本陣(ほんじん)ができました。
室津(むろつ)を訪(おとず)れたドイツ人(じん)医師(いし)シーボルトは、瀬戸内海(せとないかい)の風景(ふうけい)など見(み)たことを書(か)きのこしています。

龍野城(たつのじょう)

室津海駅館(むろつかいえきかん)
新(あたら)しいたつののあゆみ(近代(きんだい)・現代(げんだい))
明治(めいじ)4年(ねん)(1871年(ねん))龍野藩(たつのはん)がなくなり、新(あたら)しくできた兵庫県(ひょうごけん)に編入(へんにゅう)されました。
明治(めいじ)の終(お)わりごろから市内(しない)に電気(でんき)がつきはじめました。
昭和(しょうわ)26年(ねん)(1951年(ねん))町(まち)や村(むら)が合併(がっぺい)して、龍野市(たつのし)、新宮町(しんぐうちょう)、揖保川町(いぼがわちょう)、御津町(みつちょう)ができました。(昭和(しょうわ)の大合併(だいがっぺい))
昭和(しょうわ)40年代(ねんだい)水道(すいどう)が広(ひろ)くいきわたりました。
平成(へいせい)9年(ねん)(1997年(ねん))播磨科学公園都市(はりまかがくこうえんとし)がまちびらき。
平成(へいせい)17年(ねん)(2005年(ねん))龍野市(たつのし)、新宮町(しんぐうちょう)、揖保川町(いぼがわちょう)、御津町(みつちょう)が合併(がっぺい)して、たつの市(し)が誕生(たんじょう)しました。(平成(へいせい)の大合併(だいがっぺい))

たつの市(し)誕生(たんじょう)
交通(こうつう)の発達(はったつ)
明治(めいじ)22年(ねん)(1889年(ねん))山陽本線(さんようほんせん)が開通(かいつう)し、竜野駅(たつのえき)ができました。
明治(めいじ)42年(ねん)(1909年(ねん))龍野(たつの)一 網干間(あぼしかん)に電車(でんしゃ)(播電鉄道(ばんでんてつどう))が通(とお)り、6年後(ねんご)には新宮(しんぐう)まで開通(かいつう)しました。
昭和(しょうわ)6年(ねん)(1931年(ねん))姫津線(ひめつせん)(のちに姫新線(きしんせん))の本竜野駅(ほんたつのえき)と東觜崎駅(ひがしはしさきえき)ができました。
そのあと、播磨新宮駅(はりましんぐうえき)、千本駅(せんぼんえき)、西栗栖駅(にしくりすえき)ができ、播電鉄道(ばんでんてつどう)はなくなりました。
昭和(しょうわ)57年(ねん)(1982年(ねん))高速道路(こうそくどうろ)(山陽自動車道(さんようじどうしゃどう))が初(はじ)めて市内(しない)を通(とお)りました。
平成(へいせい)15年(ねん)(2003年(ねん))2つ目(め)の高速道路(こうそくどうろ)(播磨自動車道(はりまじどうしゃどう))が開通(かいつう)しました。

姫新線(きしんせん)
更新日:2025年03月31日