収蔵品のご紹介
伊予札縹糸下散紅糸威胴丸具足
龍野に伝わった至宝を特別ページにてご紹介しています。
淡路国指出寄帳
太閤検地は有名ですが、その前段階にあたる「指出」(さしだし)の存在は知られながら、具体的内容は現物が残されていないため不明でしたが、今回の調査で旧龍野神社資料の中に淡路の津名、三原二郡の指出が見つかりました。これは国内唯一の新資料です。
秀吉の四国征圧により淡路領主の仙石秀久を阿波に移し、脇坂安治に洲本3万石で封じた時、仙石から秀吉に提出していた「指出」を秀吉が自ら石高を記し、署名、押印したものです。今まで不明であった秀吉の家臣に対する所領の手続きが判明できます。




赤穂浅野家資料
2006年に寄贈を受けた旗本若狭野浅野家(赤穂浅野家の分家)の資料の中に、元禄事件で失われていたと思われていた赤穂浅野本家の資料が含まれていました。この中から、初代長重から4代長矩までの口宣案(官位任命書)など、歴代城主に関する資料を紹介します。
初代 長則(長重)又一郎長兵衛采女正従五位下
豊臣秀吉の妻 おねの兄 浅野長政の三男長則(長重)を祖とする。慶長2(1597)年には父、兄と同じく豊臣の姓を賜り従五位下、采女正に任じられる。人質として徳川秀忠に近侍。秀忠に気に入られ下野国真岡で2万石を賜う。父亡き後、笠間城と父の墓地がある真壁郡で5万3千5百石を領する。

台徳様御朱印写 常陸国 慶長11(1606)年

近江国 慶長14(1609)年

浅野采女正長重家臣大坂合戦場首帳 慶長20(1615)年
慶長20(1615)年5月、大坂夏の陣において浅野長重の家臣が上げた敵の首の内訳を記したもの。61名63首が記され、討ち取った状況、使用した得物、戦場で出会った証人となる人物とその時の様子を記している。

口宣案 豊臣長則・従五位下・采女正 慶長2(1597)年


長重御朱印写 寛永6(1629)年
二代目長忠又一郎長直長綱内匠頭従五位下
正保2(1645)年6月に領地を播磨国赤穂、加西、加東、佐用郡に移され、赤穂に城を築く。長直には子がなく、長賢を養子に迎えるが、実子長友が誕生するに及び、新墾田3千石(内証より2千石)を与え、家原、若狭野二家の分家を創立。赤穂入封後の承応元(1652)年には軍学者として知られていた山鹿素行を千石で召抱えている。

口宣案 浅野長忠・従五位下 寛永8(1631)年

長直御朱印写 寛文4(1664)年

下札(田井村物成の通知) 正保3(1646)年9月晦日
忠臣蔵の悪役の1人、大野九郎兵衛の名がある。赤穂郡田井村に連名で出された年貢の納高の通知。
三代目長友又一郎従五位下采女正
病弱を父長直が心配していた通り、在位4年余りで亡くなる。
四代目長矩又一郎従五位下内匠頭
9歳で家を継ぐ。弟大学長廣に私墾田3千石を与え嗣子にする。元禄14(1701)年3月14日、勅使饗応役の務め中、江戸城内において吉良上野介義央に刃傷に及び、即日田村右京大夫建顕の屋敷において切腹。元禄赤穂事件(忠臣蔵)の原因を作った。

口宣案 長矩・従五位下・内匠頭 延宝8(1631)年


赤穂郡佐用郡御年貢納帳 元禄5・11(1692・98)年
赤穂、佐用郡の物成24818石余りと塩浜からの運上が銀75貫749匁余り、米716石余りと、これに加東・加西両郡の収入(推定8000石余り)を合わせたものが浅野家の基本収入。

札幷銀子請取払寄帳 元禄3・7・12年

大学様辰之年御物成受払帳 元禄14(1701)年
赤穂城内並家中近辺町在之絵図

旧田付文書
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更新日:2025年03月31日